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【雑記】上手な理想の掲げ方を考えてみる

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北欧カフェスタイルから街角の小事務所に鞍替え

理想とは現実を生きるための希望

『理想』広辞苑より

考えうるかぎり最もすばらしい状態。最も望ましい姿。行動の目的となって現実に意味を与える。 

 

理想を持つことは悪くない。理想に近づこうとすることはモチベーションの源になるわけで、理想を掲げることである種の目標や目的が定まったりするのだから。

 

ドラマや映画を観ていると、その世界がうっかり「理想」だと思ってしまうことが多々ある。例えばイケメン。

イケメン君が自分の願望を具現化したキャラだったりすると、脳内が自制心を失い欲しがり暴走列車が加速する。

「あぁ、こんなイケメン君が彼氏だったらなぁ…」「あぁ、こんなイイ男が夫だったらなぁ…」と、自分の日常生活に理想を重ねてウットリ&ニヤリしてしまうのだが、甘い世界はウルトラマンの活動時間の3分よりももたない。ハッと現実に引き戻されて、大きなため息をついて、束の間の夢心地に名残を残して日常に戻る…を繰り返すのである。

 

理想の意味が「考えうる最もすばらしい状態」なのだから、非現実であることは仕方のないことだ。いわゆる『絵に描いた餅』なのである。けっして食べることはできないのだ。

(食べられない=手に入れられない)けれど絵に描くことで、なんてことのない日常に希望を持てるのだから理想を描くことは悪くない。むしろ、世知がない世の中でも腐らずにどうにかやっていかねばならないのだから、理想は生きる力に代えられるだろう。

 

ところが、理想が現実のものになるのではないかと期待しすぎると、かえって自分の首を絞める事態となる。

 

憧れの世界は「つくりもの」の世界

ドラマや映画、ファッション雑誌、インテリア雑誌…、見れば理想のオンパレード。「あぁしたい」「こうしたい」「ああなりたい」「こうなりたい」…。上昇志向の強い人であればなおのこと、上昇の先が可視化されたビジュアルは強い刺激となる。

理想を求める人の理想に近づくための投資となる特別費と、行動のためのエネルギーが費やされるわけで、それは『現実』という側面で考えると、わざわざ苦労を買ってでるようなものである。これを理想苦労と名付けよう。

 

 理想苦労をやめた

まだ自分が解っていなかった20代の頃、行きつけの美容師さんに今井美樹にしてください」とリクエストし、期待満々で鏡の前に座っていたらどこからみても「髪の毛ボサボサのおばさん」になってしまった、、、ような、私は理想苦労を重ねて今に至る。

ほかにも・・・

今の家への引っ越しが決まった際、ずっと憧れていた理想の「北欧リビング」を描いて、家具や照明を調達した。引っ越し当初は子供も幼かったし、私がモノを勝手に配置しても誰も文句を言う人がいなかったので、そこそこ理想に近いスタートアップができた。

 

あれから10年(きみまろ調)。JKは相変わらずリビングで勉強(もどき)をして、テーブルの隅にはノートや筆記具が置かれているし、私の椅子の脇にも読みかけの本が山積みされていて、今は超、超生活臭に満ちた、ド現実的な空間の中で暮らしている。

北欧ミッドセンチュリー家具の上は、プリンターと事務小棚と電話機、その横にJKがディズニーでお土産に買ったリトル・グリーンメンの置物が鎮座し、上部の壁には●●工業株式会社からもらったドでかいカレンダーが貼られている。プリンターの上は我が家の猫たちの絶好の見物台となる始末。

年ごろのJKがいる家ではけっこうクレームが発生しやすいトイレにいたっては、入って真正面のところに『お願い!使用後は(クイック脱臭モードボタン)を必ず押すこと!』という手書きの注意書きや、水洗トイレの流しフックの脇には『使用後は必ず蓋を閉めること』と書いた貼り紙、便器に座った際に目前にくるドアには、JKの高校から郵送で届いた遅刻回数を報告する注意勧告書だったりして、もう、シャレオツ感など皆無である。

 

ところどころに点在する家族それぞれのモノ。壁面のボードには家族それぞれの予定を知るための通知や手紙が貼ってあり、、、北欧テイストなど遥か彼方へ遠のき、100%我々の生活モロ出しの空間になり果てた。

 

現実から心地良い暮らしがスタートする

結局、洒落オッティな空間は理想だったんだなと諦めがつくと、逆に生活のしやすさは向上して、やれ「散らかした!」「片付けろ!」という不満もどんどん減り、結果として家族間の諍いも減り、なんだかまあるく治まっている気もする。

 

これで何が言いたいか?と言うと、『理想』は『理想』なので現実との区別はしておいたほうがいいのではないか?ということ。生きる力のために『理想』は必要だが、現実の目標と理想を混在させると理想苦労で自分の首を絞めかねない、と。

理想を求めて猪突猛進、ストイックに取り組めば、結局のところ、そこには無理があり、日常生活のしやすさとは大きくかけ離れていることが多い。

ドラマに出てくるインテリア、女優さんの素敵なファッション、なんちゃらのカリスマとかいわれる人のライフスタイル…。あれっていわゆる盛に盛られた理想であって、日常じゃあない。盛った一部を切り取って我々に「素敵だわ♪」と思わせ、そこに近づけるために(消費)を促しているだけのこと。

あの家具が欲しい、あのオブジェが欲しい、あの額縁を飾りたい、

あの服が欲しい、あのバッグを持ちたい、あの人のような生活がしたい…。

人々の理想を触発して消費へ繋ぐためだ。

 

エンタメ好きだと、いろいろな理想の夢心地を味わえる。

私は「もし、玉木宏クンが夫だったら…」という妄想を何度もした。とくに、現実に疲労している時に…。ところが、そのたびに緊張して冷や汗をかくので途中で断念する。

玉木クンの前ではまずスッピンは無理、朝食はお洒落なカフェみたいなメニューじゃなきゃな、、、あ!玉木クンがいる時は、お腹を下せない!とか。

あぁ、理想って・・・無理なこと、、、なのね、と。

 

ちなみにTOMOさんも同じような妄想をしていた。竹野内豊くんが大好きなのだが、彼が夢の中で夫として登場したら、とてもじゃないが耐えられなかったらしい。でも、堤真一さんならOKだと(笑)。

…理想というものはそういうことである。

 

現実とのギャップがあればあるほど理想は尊いし羨望するのだが、それはけっして手に入れられないものだ。幻(まぼろし)は実在しないものを見るのであり、実在した時点でそれは現実だ。つまり、今の自分の周りを見渡せば、それが現実だと判る。

そして、理想がデカくなればなるほど自分を苦しめる…。

 

…ということで、自分ではけっして手に入れられない世界がエンタメであり、その世界を創作物として目にすることができる幸せを私は今、ひしひしと感じている。

日常に没頭し、ときどきイイ夢を見させてもらって、その夢の余韻が私の生きる力となる。

 

…ここでなんだかんだ言ったけど、とどのつまり、社会の都合でエンタメ界が縮小されては困る、という私の主張である。