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【ドラマ】天才か凡才か…はやいところ判ったほうがいい - 左ききのエレン -

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痛いほどにイタイ天才。悲しいほどに切ない凡人。その間を埋めるものは…

 人間は恒温動物であることを身に染みた数日間であった。恒温・・・自ら一定の体温を保とうする生き物だということは、ルーティンが非常に重要である。つまり、身体の健康のために生活のリズムを崩さないことは最も重要で、そのリズムこそが恒温動物の「健康を(一定に保つ)」ベースとなる。・・・ということを実感した。

 我が家に生息する2匹の猫たちも然り。彼らを観察するとほぼルーティンである。早朝、ごはんの後にめちゃめちゃ元気にはしゃいでからトイレに行くのも、午後はほとんど寝ていることも、その寝場所を移動する時間も場所も、、、すべて決まっているかのように同じことを繰り返す。

  フリーランスはサラリーマンとは違って毎朝同じ時間に会社に行って仕事して帰る、、というルーティンが無いので、基本的には自主的に生活をコントロールしなくてはならないのだが、ウチにはサラリーマン1名と学生1名がいるおかげでほとんどきまりきった日常を送っている。そんな中、泊りで福岡に出張へ出かけ「今日は家に帰らんでもええ!」と羽を伸ばし、中州で飲み明かしたのが良くなかった。帰宅後、体調がなんだかおかしいなと思ったらインフルエンザA型に。中学時代?以来のインフルエンザである。

 神様はいつも私を監視している。自分が元気であることにイイ気になっていると必ずお仕置きをする。「私の自慢は健康!」という発言をするとドカーンと一発やってくるのだ。…反省。

 お医者さんから「寝ていなさい。じっとしていなさい」と言われて喜んで布団にもぐり、ゆっくり本でも読もう、DVDでも観ようとするのだが、本当に体調が悪い時は何もできない。それが悲しくて、、、やっぱり健康が一番だとつくづく思うのである。

 エンタメを楽しむには健康がイチバン!である。

 

 さてさて、そんなルーティンを身に染みて感じるのは歳のせいもあるのだけれど、ルーティンなんて糞くらえ!カタチにとらわれず、常識にとらわれず、思いのままに!という生き方をする人たちを天才と称するならば、私は悲しいほど切ない凡人である、、ということが描かれているドラマが現在放送中の『左ききのエレン』である。

 

 毎日放送制作の深夜枠ドラマイムズにて現在放映中の『左ききのエレン』がなかなか面白い。原作はコミックなのだが、テレビドラマのメインストーリーは、高校時代にエレンとともにアートの世界に自分の才能を見出そうとしていた朝倉光一(神尾楓珠)が広告代理店に就職しデザイナーとして成長する姿を中心に、会社や組織との軋轢が苦々しく描かれている。

 一応、広告代理店からのフリーランスへの道を歩いている自分にとって、けっこうリアルに人間関係の対立とか、会社組織の非情さが描かれているなと納得してしまうドラマである。営業v.s.クリエイター、組織に振り回される制作部隊、働き方改革なんてあったもんじゃないプレゼン前のゴッタゴタ、体調を崩してでもしがみつこうとする案件・・・そんなキッツキツな生活を「自分たちはクリエイティブしてるんだ!」という自負心で耐え抜こうとする実働部隊のメンバーたち。。。

 そして、そのクリエイティブの人たちが求める本物のアートは破天荒なアーティストたちから生み出されるもだったりする。彼らは社会、社会や組織やしがらみなどを最も忌み嫌う類の生き物であり、それらの言い分など耳を貸さない。けれども、この天才たちだって、評価をしてくれる社会があってこその天才である。・・・その矛盾、皮肉。。。

 『左ききのエレン』は、そんな天才芸術家と、天才になれなかった広告代理店のクリエイターが、それぞれの世界で自分を試しつつ自らの才能を開花させるために挑む姿が描かれる物語だ。

 

 芸術は存在そのものが芸術であってほしいが、作品が見い出され、世に発信されなければ評価の対象とはならない。芸術を生み出す天才たちが、世の中を熟知して社会を見据えてプロデュースできるスキルなどない。だから天才なのだ。

 ちょうどゴッホの映画を観たばかりなので、この矛盾がとても痛く感じる。

 つまり、天才が、スターが世に出されて輝くためには、その橋渡しとなる存在が必要だということだ。社会に近づけば近づくほど、えげつない人間関係の中に耐えて柔軟にふるまわねばならくなるのは仕方ない。でも、天才には、スターたちには、そんな社会から隔離して自らの世界に没頭する環境が必要だ。

 天才として生きる人もいて、凡人として生きる人もいて、それぞれが単独では生きられない。互いにその存在が必要であり、存在によって才能が輝く。

 

 これって、べつに特別な世界だけじゃない。自分ひとりで生きられないのと同じだ。互いに欠けている部分を補い合うことでどうにかやっていけるのがこの世界。

 そして折れそうな自分を守る力がプライド。でも、そのプライドによって自分の首をへし折る人もいる。・・・難しいね、人生って。。。

 

 話は変わるが最近のトピックス、沢尻エリカの薬物問題。彼女が逮捕されて、昔の「べつに~」発言が蒸し返されて、薬物問題というか彼女の人間性の部分まであれこれ言われているのだけれど、あれってどうなんだろう。

 うちのJKが「今って、誰もが納得できる模範解答で答えるような人でないと世に出ちゃいけないってことなのかな?」と言い出して、すごく納得。確かに、薬物問題はアウト!だけれど、それ以外の部分、彼女の人間性の部分は彼女の個性である。同じタイミングで、寺田心くんの出演した『徹子の部屋』を観て、それはそれで彼の個性だけれども、うちのJKは「まだ子供なのに、、、いいのかな、、、あれで」と思ってしまったと。

 とくにタレントは人そのものが商材だ。だからこそいろいろな人がいて、彼らから多様なパフォーマンスを楽しませてもらっているわけで、、、だれもが品行方正、そつのない立派で無難な発言が求められていて態度も人格も立派である必要があるか?ということだ。

 申し訳ないけれど、私は誰もが納得できる立派なコメントだけ言われてもあまり心には響かない、残念ながらへそ曲がりな性格だ。周囲に自分がどう見られているかを考えて発言できることはとても優秀なスキルだと思うけれど、それを見て、人間的な魅力を感じるかどうかは別だ。

 人間なんだから、杓子定規にふるまわなくってもいいんじゃないか?と思うのだ。芸能人もSNSなどで舞台裏の様子を見せてくれるようになったけど、それを見て、非常識だなんだと文句をつける人たちがいる、、、だったら、SNSなんてしないで表の顔しか見せない方がいいでしょう。「(素敵な)パフォーマンスを見せてくれるあの人の素顔はいったいどうなの?」というのを知りたいのであれば、彼らのその表現の自由を面白いと思って見たらいいんじゃないかと思うのだ。

 しょせん人間はデコボコなんだから、そのデコボコから素晴らしい才能が発揮されることもあるんだから、、、そういう才能を評価していきたいし、どうせ素の顔を見せてもらえるのなら、できるだけそのまんまの姿を見たいと思う。でも、それには厳しすぎるのがSNSだったりネットに出回るフェイクニュースだったりするのだ。

 

 この世のだれもがオンリーワンだけれど、やっぱり特別な存在というものはあって、社会を照らす才能を持つ人もいれば、特定の人を照らす人もいる。それぞれの役割に良し悪しなどはなくて、そういう才能で生まれてきたのだ。

 エレンの才能も光一の才能も、その姿は違えど、輝く場所があって、求める者たちがいる。天才も凡才も、必ず、その居場所がある。比較ではない。認め合う、、、そうあって欲しいと思うのは間違いなのだろうか?