【雑記】100分de名著-アルベール・カミュ『ペスト』:文学から人類の試練を考える
アーカイブスから思考を広げてみる
前回の記事に書いた通り、引きこもり生活に充実を図るためNHKオンデマンドに登録した私が観たかったのが『100分de名著』シリーズだ。面白かった回はムック本も買ったりしているんだけど、放送時間がドラマとバッティングしたりすると録画できなかったりして見逃し回がたくさんあった。
ちょうど、こんなご時世だということもあって、フランスの作家アルベール・カミュが1947年に発表した『ペスト』を取り上げた全4回を観た。さすが、ノーベル文学賞受賞者だ。スゲーッ!
カミュといえば『異邦人』が有名。中学生時代に背伸びして手に取ったことを覚えているけど、なぜ主人公が母の死を悲しむことから逃げて、あえて傍若無人な態度で我が身を破滅に追いやってしまったのか、その意味が全く分からず消化不良で読み終えるしかなかった。読み解くには幼すぎたのね...。
集団に襲いかかる不条理
『ペスト』はとにかく暗い、暗ーい作品だ。
アルジェリアにあるオランという港町で伝染病のペストが発生。厳しい状況の中で、さまざまな立場の人たちがペストと闘う様子が、身分を明かさない語り手が記録した形で描かれている。
Wikiによると、14世紀に起きたペスト大流行では、世界人口4億5000万人の約2割余りが死亡したと推計されていると書かれている。『ペスト』ではこうした人間の力ではどうしようもない出来事、つまり“不条理”との闘いが描かれていて、カフカの『変身』とともに不条理文学とよばれている。
この作品が発表されたのは1947年、第二次世界大戦の終戦直後であり、世界じゅうの人が抱いた戦争という不条理が投影されていると、指南役のフランス文学者、中条省平氏は言う。
それは突如として起き、人々は受け入れに難儀する
オランの医師リウーはアパートの階段で1匹のネズミの死骸に躓く。その日の夕方、口から血を出し死んでいくネズミの姿に出くわすのだが、リウーの頭の中は結核療養中の妻のことでいっぱいだ。
しかし、日に日に街頭のネズミの死骸が増え…町が不安に包まれていく。そして、リウーのアパートの門番が高熱と激痛に苦しみ、あっという間に息を引き取る。
そこへ先輩医師のカステルが訪ねてきて、リウーはこうたずねる。
「ほとんど信じられない。でも、これはおそらくペストですね」
「実際、天災はよくあることだが、それが自分の頭上に降りかかってきたときにはそう簡単に信じられないものだ」
「だが、ペストや戦争がやってくるとき人々はいつも同じように無防備な状態にあった」
…これが、『ペスト』の冒頭だ。のっけから読者にはペストの登場を示したものの、物語の舞台であるオランの人々はなかなか現実が直視できない。(あれ?これって今の日本の政府と同じ?!)
もちろんオランでも有識者会議のようなことが行われるのだが誰一人ペストだと認める者がなくリウーは苛立つ。医師会会長のリシャールから
「率直に君の考えをいってほしい。これがペストだという確信をもっているのかね?」と聞かれたリウーは、
「問題の立て方が間違っています。これは名称の問題じゃない。時間の問題なんです」と答えるのだが、これに対しリシャールは、
「つまり我々は、この病気がまるでペストであるかのようにふるまう責任を負わねばならないわけだ」
…ここの(ペスト)を(オーバーシュート:爆発的急増)に置きかえてみてくださいな。
カミュが1947年にシミュレーションを示してくれていたような気がしてきちゃう…。
リウーはさらにこう言う。
「我々は、まるで市民の半数が死なされる危険がないかのようにふるまうべきではない。なぜなら、そんなことをしたら人々は実際に死んでしまうからです」
その後、いったん事態は収束したかのような穏やかな日が続くのだが、数日後、突如として死者が急増する。
ついに知事の元へ植民地総督府から
「ペストの事態を宣言し市を封鎖せよ」
町を封鎖し市民を隔離せよ、ということだ。
「この瞬間から、ペストは我々みんなの出来事になったといえよう。それまではこの不可解な事件がもたらした驚きや不安にもかかわらずそれぞれの市民はいつもと同じ状態であるかのように自分の仕事を続けていた」
「ところが、ひとたび市の門が封鎖されてしまうと、この物語の語り手を含めて
市民全員が同じ袋のネズミとなり、そのなかでなんとかやっていかなければならないことに気づいたのだ」
…もう、これ以上は知りたくない?って感じ(;_:)
不条理とはこのように、なんでもない日常に対して一気に襲い掛かってくるものなのだ。
ちなみに私は東京で暮らしている。このままでいくと、東京はいずれ、いや、まもなく、封鎖されるだろう…。創作物語の話ではない、現実に起きる…のだ。
全4回のうちの第1回のここまででもう十分怖い。。残り3回、どんどんリアリティを持って迫ってくる。私は勇気を振り絞う必要がありましたが、ぜひ、良かったら『ペスト』を読んでみるか、100分de名著シリーズを観てみてください。
カミュがまるで今の世の中を予言して書いたのかと思えてしまうのだが、実は、ペストの大流行のように人類が感染症(伝染病)の脅威にさらされた経験はこれまで何度かあったわけで…、つまり、今回の新型コロナウイルスの脅威は、ある程度、過去の歴史から想定できたはずのことなのに、人間は無事・無難の中にいるとこうした過去の貴重な経験を忘れ、そこから学んだ教訓が生かされないままでいる。
今この不条理にどう向き合うか?
事態に対してリウーの友人タルーは『理解すること』と言う。それは自分にとっての倫理(モラル)、行動様式であると。一方、リウーは『見きわめること』。それは果てしなき敗北に抗う、闘うことであると言う。
事態が悪化すると人々は感情を失い、「市民たちは足並みを合わせ災厄に適応していった」のだが、リウーは「それこそがまさに不幸なのだと考えていた」
「絶望に慣れることは、絶望そのものよりも悪いのだ」と。
状況が停滞状態になり、医師リウーをはじめとしたペストと闘う人たちが疲弊する中で、街にはひときわ元気な者たちが現れる。犯罪者コタールはペストのおかげで逮捕に怯える必要がなくなり自由を手に入れたのだ。ペストはコタールに味方した。一部の市民たちはペストが流行しても享楽的な生活に走っていたのだ。(・・・がそれを一蹴するような事件は起きる)
一方、医師リウーは瀕死の少年オトンの治療にあたる中で、最後の望みとなる血清を彼に接種するのだが、それは苦しみをより強く長く引き伸ばしただけで助けることができなかった。リウーはオトンの死に立ち会ったパヌルー神父に「子供たちが苦しめられるように創造されたこの世界を愛するなんて、私は死んでも拒否します」と怒りをぶつける。パヌルー神父は保健隊に入り、最前線で献身的に働くのだが、「もし、自分がペストに罹ったらそれを受け入れて(神の意思に従って)治療は受けない」と宣言する。数日後、体調を崩したパヌルー神父はペストと断定されることなく息を引き取る。
不条理から抜け出した先にあるものは?
第4回ではゲストに迎えた哲学者で武道家の内田樹氏は、『ペスト』はナチスドイツへのレジスタンス(抵抗運動)とレジスタンスを取り締まるコラボラシオン(対独協力派)の人たちのことを書いていると語る。
結局、物語はやっとペストの収束が見えてきたところで、リウーの親友タルーがペストを発病。弱気になるタルーを「(ペストと)闘うんだ!負けてはいけない!」と励ましながら、リウーは禁を破り自宅でタルーを看病するのだが、残念ながら亡くなってしまう。タルーの葬儀の日、遠方で結核療養中だった妻の死の知らせが届くリウー。
さて、リウーは何を勝ち得たのか?
「彼が勝ち得たのは、ただ、ペストを知ったこと、そしてそれを忘れないこと」
「(タルーとの)友情を知ったこと、そしてそれを忘れないこと」
「ペストと生命の勝負で人間が勝ち得たものは、認識と記憶だった」
ようやく終息宣言が出て、封鎖が解かれた町は歓喜に湧く一方でリウーは独り歩く。
医師リウーはここに終わりを迎える物語を書こうと決心する。(つまり謎の記録者はリウーだった)
「沈黙する者たちの仲間にならないためにペストに襲われた人々に有利な証言をおこなうために…(略)、最悪の最中で学んだこと、すなわち、人間のなかには軽蔑すべきものより賞賛すべきもののほうが多いと語るために」
物語はこう結ばれる。
「ペスト菌はけして消すことも消滅することもない。そして、おそらくいつの日か人間に不幸と教えをもたらすためにペストはネズミたちを目覚めさせ、どこか幸福な町に送り込むのである」
カミュは政治的メッセージをペストに代えて描いており、1951年に出した『反抗的人間』の中で「他者と連帯することで人は孤独から抜け出し不条理な現実に立ち向かえるのだ」と説いているのだが、これを、私たちの現状に置き換えて考えることもできなくはないだろう。
不条理は起きる。その時、我々人間にできることは、過去の経験を学び直すこと、そして他者と連帯(協力)すること、この経験を忘れないこと、(後世の人たちのために)記録を残すこと…。
悲観的になりすぎず「明るく見きわめよう」とすることをリウーから教えてもらった気がした。
作品が暗いので、話も暗くなっちゃったけど、時間がある今だからこそ、読解に手間のかかる文学に触れるのも一興。…そのダイジェストをテレビ番組で観れるというのは、とても有難い。
…ということで、私はこれから気分を変えるために録画しておいた『筋肉体操』を観て身体を動かそうっと!